アイマリンプロジェクト
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第3話 水中花

そこは光のない場所だった。
あたたかい何かに包まれ、【僕】は漂っている。
ざわめき。遠くから、近くから伝わってくるくぐもった振動。

(潮騒)

気が付く。ああ、ここは海だ。自分は海の中にいる。
光のない海の中で、輝きが起きる。
輝きは光ではない。神経伝達物質が軸索から放たれ、受容体に結合する閃きだ。
その中で神経細胞は芽吹き、成長し、絡み合う。それが、そこにさらなる輝きを生む。
限りなく連なる連鎖反応。
その中で細胞は林を編み、森を織りなしていく。成長し続ける森の中で、輝きは次第に規則を自律的に生み出しはじめる。森の成長に従って、はじめは単純だった規則は、指数関数的に複雑さを増す。
それは言葉だ。
それは音楽だ。
それは舞踊だ。
【僕】は知っている。
その複雑な優雅なダンスこそ【僕】を生み出したもの……いや、【僕】そのものなのだと。
それはやがて【僕】の自我と呼ばれることになるだろう。
数十億年の進化をわずか数十日で辿り、形成される感覚器官。それによって、【僕】の世界に新たな感覚が現れはじめた。
視覚はまだ目覚めない。相変わらず、ここに光はないのだ。闇の中でむしろ【僕】を驚かせるのは聴覚の方だ。
【僕】はいまさら気付く。もうすっかり馴染んでいたあの振動、潮騒とは音なのだと。
その音は単純ではない。
継続的な響きの中に、規則的に強い響きがある。その正体に【僕】は思い至る。
それは拍動。
それは脈動。
心臓……【僕】にも存在する器官が生み出す音だ。
だが、その音は【僕】のものではない。【僕】以外の誰かの心臓の音だ。

(【僕】以外の誰か?)

この暗く、あたたかい海の外に誰かがいるのだろうか。
【僕】は耳を澄ます。
成長を続ける僕の聴覚器官は、そのかすかな音をとらえる。
音は連なっていた。変化する周波数特性を伴って。

これは……。

(これは、歌だ……歌っているのは)

「あっ、起きた」

瞼を開ければ、光が差し込んでくる。
金色の長い髪が目に入る。
アイマリンがカイトの顔を覗き込んでいた。

「おはよう」

アイマリンがそう言って笑う。なんとも魅力的な笑顔だった。カイトはそれを見上げながら鸚鵡返しに答える。

「……おはよう」

答えてから気が付く。なぜ、自分はアイマリンの顔を見上げているのだろうか。理由は簡単だった。
自分は寝転がり、頭を預けているからだ。
アイマリンの膝の上に。その体勢では、アイマリンが自分を見下ろすのは当然のことだ。
人はその体勢のことを膝枕、と呼ぶ。

「わあああ!!」

カイトはアイマリンの膝の上から飛び起きた。

「な、なんで膝枕……」
「カイトがあんまり気持ち良さそうに寝てるから、もうちょっと寝心地良くしてあげようかなって……地面は固いし。でも、子守唄は逆効果だったね、起こしちゃったみたい」
「……子守唄?」

そういえば、夢の中で歌を聞いた気がする。あれはアイマリンだったのか。
おかしな夢だった。カイトがその夢を思い出そうとした時、聞き慣れない声がした。

「アイマリンさん、そいつが目を覚ましたんだったら早く行きますよ!」

少女の声だった。そちらを見る。
そこにいたのは、アイマリンやカイトより少し年下の少女だった。明るい色の髪に、さらに明るい色の瞳。そこには快活そうな光が宿っている。
残念ながら、今、その瞳が表しているのはカイトへの非難だった。

「っていうか、貴方は誰なんですか?」
「え、ええと……俺はカイト」
「面白くもない名前ですね。で、貴方は何者です?」

そんなことを聞かれるのははじめてで、カイトは戸惑ってしまった。

「何者……って聞かれても……アルバイト?」
「はあ、アルバイト?」
「《レトロスペクティブ海鮮居酒屋バル「大海原」》って店でバイトしてて……」
「なにその名前、センス悪っ」

その意見にはカイトも全面的に同意するところだったが、先程から知りもしない人間にここまで悪し様に言われるのにもカイトは少々腹が立った。

「そっちこそ、名前くらい言えば?」
「私はイサナ。オルカの妹です!」

胸を張ってそう言い放ったイサナだったが、カイトにはまるでピンと来ない名前だった。

「……オルカ?」
「その反応……まさか、オルカお兄ちゃんを知らないのですか?」

イサナは信じられない、と衝撃を受けているようだった。どうやらイサナという少女の兄はよほどの有名人らしい。

「知らない」

カイトが首を振ると、イサナはぶつぶつと呟きはじめた。

「……やっぱりこいつはスパイじゃないってことでしょうか。でも、演技って可能性もあるし……いや、こんな間抜け面じゃあ無理かなあ。でも、もしかするとそれも演技かも? だとすると相当優秀なスパイ? いや……でもこんな間抜け面ですし」

独り言というには少々大きい声で、その内容はカイトにも……そしてアイマリンにも聞こえていた。

「イサナ! カイトはスパイなんかじゃないよ! 私を助けてくれたんだから!」
「分からないじゃないですか、それもうまくここに入り込むための作戦かもしれません」
「カイトはそんな人じゃない。……ほら、見たら分かるでしょ? この人の好さそうな顔!」
「だから、それって間抜け面ってことですよね? ちょっと良く言っただけじゃないですか」
「そ、それは……そうだけど」
「それだって、優秀なスパイが被った仮面かもしれないでしょう!」
「だから、カイトはスパイなんかじゃないから!」

アイマリンはイサナの疑いを強く否定する。
カイトとしては、出来れば「間抜け面」の方も否定してほしかったところだった。

「……とにかく、カイトはオルカに会ってもらうから」
「むー……私もついていきますからね。そいつが怪しい動きをしないように。もし、変な動きをしたら」 

ガチャリ、と少女が肩から背中に提げていたものを手に取る。
イサナは、彼女のような少女が持つにはあまりにもそぐわないものを持っていた。
それは黒光りする、ひどく無骨な小銃だった。

「海の藻屑に変えますから」

海。
カイトはようやく思い出した。
そうだ、自分は海に飛び込んだはずだ。
それから、気を失って……目を覚ますとここにいた。
だとすると、ここは一体……
カイトは慌てて周囲を見回す。
カイトがいたのは門の前だった。
ゴテゴテと輝く門は巨大な建築物へと通じている。
それは相当な回数の建て増しを重ねて造られたらしい、異様な代物だった。様々な色や素材が寄り合わさって形成されたそれは、かつて存在し、今ではアーカイブの中にしかその姿を残していない巨大な珊瑚礁にどことなく似ていた。
珊瑚の枝に当たるのはギラギラと輝く看板群だ。多種多様な言語で書かれているそのほとんどをカイトは読むことが出来ない。通常、《ELEUSIA》のどこでも機能するはずの自動翻訳による書き換えがこの場所では機能していないようだったからだ。
それでも、そのうちの一つをカイトは読むことが出来た。

「……ようこそ《水晶宮》へ?」
「そう、ここは《水晶宮》。ご存じ、《果ての海》の中にある《自由機甲楽団》の楽園です」

イサナがそう告げた声は、誇らしげな感情を隠そうともしていなかった。
ご存じ、と言われてもカイトは知らなかったのだが。

挿絵

混沌。

それが《水晶宮》を表現するのに最も相応しい言葉だろう。
カイトが慣れている風景といえば管理されたデザイン・ドクトリンに従っている、《市場73》のような街並みだ。ここはそういう景色とは全く異なる。大きな一つの建設というよりは、小さな建築の集合で、それぞれが勝手気ままな主義主張を持って建てられており、全体としての調和など一切考えられていない。真っ赤な壁の隣に黄色い壁。素材も違えば構造も違う。それらが無秩序に接続されている。
それでも、なぜか全体として見れば不思議と一つの生物群であるかのようにまとまって見えるのが不思議だった。
そんな景色を見ながら、《水晶宮》の心臓部へとカイトたちは歩いていった。
誰もがアイマリンやイサナとは顔見知りであるらしく、歩いているとしょっちゅう声をかけられる。

「アイマリン、帰ってきたんだ! 寄っていってくれよ!」
「ごめんねスナッパー、ちょっとお客さんをオルカのところに連れていきたくて」
「オルカのところか。あー……それでイサナがくっついてるのな

「それで、って何ですか!」
「だってお兄ちゃん大好きじゃん」

そんな会話を横で聞いていると、カイトも話しかけられる。

「兄ちゃん、ここには今日来たのか?」
「ええ、はい」

質問は嫌な感じではない。むしろ、歓迎されているという印象をカイトは受ける。

「だったら、うちの店に来てくれよ! うまい飯も酒もあるからよ!」
「うまい飯……?」

カイトは思わずその言葉に反応してしまった。そういえば、《市場73》を逃げ出してから何も食べていないのだ。

「もうカイト、まずはオルカと会わないと。ご飯はその後ね」

アイマリンに窘められ、後ろ髪を引かれる思いでカイトは歩いていった。
しばらく歩くと、目的地に着いた。

「ここがオルカの部屋。オルカ、いる?」

そう言ってアイマリンがドアをノックすると、すぐに返事がある。

「その声、アイマリンか! 入ってくれ」

その声に従い、三人は入室する。大きな机の奥に、男が一人座っていた。この男が散々話に出てきた「オルカ」なのだろう。
鋭い目をした大柄の男だった。それでいて、その瞳には妙な愛嬌がある。

「良かった、無事だったか!」

アイマリンの姿を見たオルカは、そう言いながら立ちあがる。カイトよりも頭一つ大きい。威圧感を覚えてもよいはずだったが、男の柔和な雰囲気によってそれを感じさせない。
アイマリンが言う。

「このカイトが助けてくれたの」
「ほお……アイマリンが世話になったな。俺はオルカ。一応、ここの団長ってことになってる」

そう言ってオルカは広い肩から腕を伸ばしてカイトに握手を求めた。袖をまくった腕は浅黒く日焼けしており、そこにはよく鍛えられた筋肉が付いている。
カイトがその手を取れば、痛いほどの力で握り返してくる。

「カイト。これから、よろしく頼むぜ」
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん! 少しは疑うってことをしてください! スパイだったらどうするんですか!」
「カイトはスパイじゃないってば!」
「なに! カイトはスパイなのか!」
「だから、違うってば!!!」
「おいお前、どっちなんだ!」

オルカの声はよく通る。それが大声を出したので、かなりの迫力だった。たじたじとなりながらカイトは答える。

「スパイではない……のですが」
「ですが……」
「えっと……まず、ここがどういうところか教えてもらえると……」
「「え?」」

オルカとイサナがそっくりな動きでアイマリンの方を向く。その動作に、この二人が兄妹であることをカイトは実感した。

「アイマリンさん……まさか説明してないんですか?」
「おいおい、どういう場所かの説明もなしにここまで連れてきたのか?」
「ちょ、ちょっとは説明したよね……ね、ねえカイト」
「まあちょっとは……《自由機甲楽団》のところへ連れてきてくれる、ということくらいは……」
「それだけ? ……アイマリンさん!?」
「しょうがないでしょ! 追われててちゃんと説明する時間なんてなかったんだから」

イサナに責められ、アイマリンは顔を真っ赤にしている。
オルカも呆れ顔だった。

「そもそも、助けられたってのはどういうことだ?」
「《市場73》でのゲリラライブは《S_N》当局にバレてた。雷魚が襲ってきたの。私はあいつのパラライズを喰らって、動けなくなっちゃって」
「報告で聞いている。お前以外はすぐに逃げ出せたが、アイマリンだけ現場に残す形になってしまったと」 
「みんな無事だったんだ、良かった。……それでね、カイトが匿ってくれたの。《市場73》の中の隠れ場所を教えてくれたんだ」

アイマリンの言葉はカイトにはくすぐったかった。

「やるじゃねえか。あいつらに逆らうってのはなかなか出来ることじゃねえ。……その話を聞いたらスパイってこともなさそうだな。ここにスパイを送り込むより、アイマリンを捕まえる方が優先度が高いはずだ。逃がす理由がない」
オルカはうん、と頷く。
「スパイなんてありえないってば。……カイトは……なんか特別なんだ。はじめて会った瞬間から」
そう言ったアイマリンを、オルカはなぜか目を見開いて見つめた。
しばらく呆然とした後、何かの考えがまとまったらしくオルカは深く頷く。
「よし。イサナとアイマリンでカイトにここを案内してやれ」
「いいよ!」
「……ええ? 私も?」
「俺が言葉で説明するより実際に見て回った方が分かりやすいだろ。ここがどういう場所で、俺たちがどんなやつらなのか」

オルカはニッとカイトに笑いかけ、強くカイトの肩を叩いた。

「まあ、楽しんでくれ。俺たちの楽園、《水晶宮》をさ」

オルカの言葉通り、《水晶宮》の中をアイマリンとイサナが案内してくれる。
内部に入れば入っていくほど、《水晶宮》は混沌とした場所だった。アイマリンとイサナが迷わないのが不思議だったが、イサナによれば、

「とにかく、慣れですよ、慣れ」

ということだった。
門の前から見た時は大きな建物に見えた《水晶宮》だったが、実際にはいくつかの棟に分かれている。棟と棟の間の地面には畑が作られているようだった。

食料は自給自足してるんです。大体は海で獲れたものと、こうやって畑で作ったものです」

そう言ったイサナの言葉で、アイマリンは先程の会話を思い出したらしい。

「あ、そうだ、カイトお腹すいたよね。ご飯食べに行かないと!」
「じゃあ、スナッパーさんの店に行きます?」

スナッパー、という名前にカイトは思い出す。

「ああ、さっきの人?」
「あそこだと海で獲れた素材を使った料理になりますけど、それでいいですか? ……まあ、《水晶宮》だと大体そうなんですけどね」
「……天然モノの鯛」
「ん?」
「もしかしてあるかな、天然モノの鯛」

カイトの呟きにアイマリンが首を傾げる。
天然モノの鯛。そんな無理難題をバイト先の店長に押しつけられなければ、カイトは今ここにいないだろう。そう考えると、カイトにとって因縁の食材とでもいうべきだった。
そんなことを知るはずもないアイマリンは気軽に言う。 

「どうだろ。聞いてみたらいいんじゃない?」

「あるぜ」

《スナッパーの店》の店主、その名もスナッパーの答えは明解だった。

「ここ数日、《S_N》のやつらの警戒が強いとかで、どうも《主都》方面に出荷出来なかったらしくてな。いいのが入ってるよ。食べ方はどうする? 焼くか、煮るか……なんでもある。生っていうのもありだな」
「な、生!?」
「知らないか? サシミって食べ方だ。《主都》じゃやらないだろうな。養殖ならともかく合成モノじゃ不味くて食えたもんじゃない。だけど、今日の鯛ならいけると思うぜ?」
「い、いやあ生の魚はちょっと……じゃあ、焼きでお願いします」
「よっしゃ、鯛のムニエル定食一丁!」
「私もそれね!」
「私、サシミでお願いします」

アイマリンとイサナがそれぞれ注文する。

「え……サシミって……生の魚、だよな? ホントに食べるのか……?」
「文句あるんですか? 魚は生が一番美味しいんですよ! ねえアイマリンさん、こいつ、やっぱりスパイなんじゃないですか? サシミのことこんなにディスるなんて」
「もう、カイトはスパイじゃないってば」

スパイ、という言葉に周囲のテーブルに座ったものたちがぎょっとしてカイトの方を凝視してきたが、カイトが肩をすくめてみせると冗談だと思ったらしく、すぐに自分たちの会話に戻っていった。
スナッパーの店は混み合っており、驚くほど活気があった。かなり広い店内だったが席は概ね埋まっている。奥の方には演奏できる場所などもあるようだった。ちょうど夕食の時間帯で、そこら中で杯を交わす音が聞こえている。

「すごい熱気だ」

そうカイトが感想を漏らすと、イサナが笑う。

「《水晶宮》の夜はどこでもこんなものですよ。みなさん、どんちゃん騒ぎが大好きですから」
「どんちゃん騒ぎ?」

カイトの呟きにアイマリンが笑みをこぼす。

「すぐに分かります。あ、来ましたね。今のうちに食べておいた方がいいと思います。どうせもうちょっとすると落ち着いて食べられなくなりますから」

三人の料理が運ばれてきた。カイトの目の前に置かれたのは鯛のムニエル、スープ、パンだ。どれも湯気を立てており、吸い込めば香ばしい匂いに思わず唾液が湧き上がる。
カイトは空腹もあり、たまらなくなってムニエルを一切れ頬張った。
柔らかい身がほろりと口の中で崩れる。凝縮された魚の旨みが口の中に広がる。

「うまい……店長が天然モノ買ってこいって騒ぐわけだ……」

そのおかげで、こんなところまで来てしまったが。
しかし、店長はどこから食材を仕入れていたのだろう。そんなことを考えながらもカイトの手は止まらない。たちまち食事を平らげてしまう。

「食べるのはやっ! まあ、ちょうどいいですね、まさに今、来たところですし」
「来た?」
「落ち着いて食べられなくなるってアイマリンさんが言ってたでしょ? その理由があれです」

イサナが顎をしゃくった方向を見れば、店の入り口から大きな荷物を持ったものたちが入ってきていた。そのまま店の奥の演奏スペースに行って荷物を取り出す。
それは楽器だった。
店の客たちから声が飛ぶ。

「よっ! 待ってました!」
「いっちょ景気のいいやつを頼むぜ」

準備もそこそこに、楽器が音を出しはじめる。
それはなんとも陽気な音楽だった。まるで、この店の雰囲気をそのまま音楽にしたような。
客の中には大声で歌っているものもいる。そのまま興が乗ったのか、立ちあがって踊りはじめた。
次々と立ちあがり、踊り出す客たち。店内はあっというまに大騒ぎとなってしまう。

「いいぞー!」

客から野次が飛ぶ。
見たこともない光景だった。食事中に席を立つなどありえない。それはあまり良いことだとされていないのだ。だが、ここでは誰一人非難することはない。
店内のものたちは誰もが楽しそうだった。それを見ているカイトも何故か楽しくなってしまう。

「ね、どんちゃん騒ぎでしょ? これが《水晶宮》……《自由機甲楽団》だよ」

アイマリンがそう言って笑う。その笑顔に、カイトはまたしても見蕩れてしまった。
もう何度目だろう、この少女の笑顔にこうして心を奪われてしまうのは。

「なあ、アイマリン、歌ってくれよ」

料理が一段落したのだろうか、酒を片手に近付いてきたスナッパーがアイマリンに言う。
飲みながら料理をしていたらしい。頬は赤くなり、随分と上機嫌だった。

「そうだね。ねえ、私歌っていい!?」

そう周囲に語りかけると、店内中から賛同の喝采が上がった。
立ちあがって楽団の前に立つアイマリン。

「じゃあ……今日は私のバンドはいないから、アカペラで……これは、昔から私が知っている歌」

そう言うと、アイマリンは小さく息を吸った。
その音は、店内の隅々にまで聞こえただろう。
先程までの喧噪が嘘のように店内は静まりかえっていた。
アイマリンが歌いはじめる。
それは不思議な歌だった。
切なく、悲しく、それでいてその旋律には喜びが満ちている。
何より不思議なのは。

(……懐かしい)

その歌声に身を委ねていると、消えてしまった記憶の向こう側に手が届きそうな気がする。
《市場73》で聞いた歌とは全く違う。あそこにあったのは、もっと激しい怒りであり、渇望だった。今アイマリンが歌っているのは違う。
もっと優しく、それでいて切実な感情だ。
気が付けばカイトの瞳からは涙が零れていた。
名前もつけられない感情に揺さぶられて。

アイマリンの歌が終わると、再び静寂が店内に満ちた。そして、一瞬の後、それは爆発するような喝采に変わる。

「すごいなあ……」

イサナの呟きがカイトの耳に入る。思わずそちらを向くと、イサナはカイトに向かって言う。

「ここにいる人は、みんなアイマリンさんの歌に惚れてるんです。それが《自由機甲楽団》。オルカお兄ちゃんは団長だけど、本当の中心はアイマリンさんだっていつも言ってます……私もそうだと思います」

イサナの言葉にカイトは頷いた。

「ここがどういう場所か分かった気がする」
「……そう。私たちは、これを守るために戦っています。《EDEN社》と。だから、カイトさん。もし貴方がスパイだったら私は絶対に許しません」
「だから違うって」
「分かってます。《S_N》だったら、歌を聴いて泣いたりしませんから」

泣いていたのを見られていたらしい。恥ずかしくなって顔を背けると、イサナが笑った。

「やっぱ間抜けな顔。でも、素直なのはいいと思いますよ」
「うるさいな」
「……よろしく、カイトさん」
「よろしくイサナ」
「ちょっと、私のいないところで仲良くなってるの、ずるいよ!」

その声に振り返ればいつのまにか、アイマリンがテーブルに戻ってきていた。
この少女は分かっているのだろうか。イサナとカイトの間のわだかまりを解いてしまったのは自分の歌なのだと。
カイトは笑う。

「よろしく、アイマリン」
「よろしくね……《自由機甲楽団》へようこそ!」

挿絵

何一つ無駄なものがない場所だった。
《EDEN統括ライブラリ》内ではどこもそうだったが、ここ《S_N本部ノード》は中でも特別だ。
慣れている雷魚でさえ、ここに来る度に息苦しさを覚える。この完全な空間では自分の呼吸すら許されない気がするのだ。
その中心にその男は座っていた。
カンディル。
《EDEN社セキュリティ特務部門》……《S_N》長官。雷魚の上官に当たる人物だ。
その素顔を雷魚は未だに知らない。その顔を見ても、曖昧な印象を抱くばかりで、特定の顔というものを見ることは出来ない。高度なID偽装レイヤーに包まれているせいで。
偽装レイヤーの作る「誰のものでもない」顔が言葉を発する。

「第一機動部隊部隊長より報告を」
「はっ……《水晶宮》の発見はもう間もなくだと思われます」
「トレーサーが動作したか」

雷魚は報告データをこの部屋だけの厳重に鍵をかけられたストリームへと投下する。
これでカンディルにも報告が見えているはずだ。
雷魚はそのデータを目で追いながら口頭で補足した。

「現在は途切れていますが、通信が途切れる直前《果ての海》にいたことが確認されています」

あの反乱者は攪乱のため、かなり奇妙な経路を辿っていたが詰めが甘い。最終到達地点さえ分かればなんとでもなるのだ。

「海……暴走した情報マトリックスの中か。そうだとは思っていた……あの娘の力があればそれも容易だろう」
「海は広大で今まで場所を特定出来ていませんでしたが、ここまで分かれば後は時間の問題です」
「しかし、どうやって海の中へ入る?」
「それは……」

雷魚は言葉に詰まる。
カンディルはその様子を見て声を立てた。
もしかして、今のは笑い声なのだろうか。偽装レイヤーは音声も変調しており、それは全く笑い声には聞こえなかった。

「安心しろ。手はある。なんのためにそれを貸したと思っている」

それ、と呼ばれたのは、雷魚の脇に控えていた少女だった。
常に無表情な、不気味な少女。
カンディルによって第一機動部隊に配属されたその少女について、詳しいことは雷魚に何一つ知らされていない。雷魚が知るのはその名前だけだ。
構わない……知るべきではないことは知るべきではないのだ。

「イチカゼロ。準備が出来次第、雷魚の指示に従い、《水晶宮》へ向かえ」
「了解……私は隊長の指示に従う」
「雷魚よ、《水晶宮》まではそれが導いてくれよう。……必ず、あの娘と少年を捕らえるのだ」

そう言うと、カンディルはまたあの不気味な音声……笑い声を上げた。
それを聞きながら、雷魚は背中に嫌な汗がつたうのを止められなかった。